結局、「約束のネバーランド」という作品はなんだったのか

書評
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「約束のネバーランド」の最終20巻を読みました。

連載開始時から衝撃的でスリリングな展開が話題でしたが、
その熱量と密度を落とすことなく、最後まで駆け抜けましたね。

最ッ高に面白かったです。

もっと読みたかったような物寂しい気持ちもありますが、
これが作者の思い描いたとおりの終わり方だったのであれば、
それが読めたことはとても幸運で幸せなことなのでしょうね。

結局、「約束のネバーランド」という作品はなんだったのか?
この作品からいただいたことを忘れてしまわないよう、書き留めたいと思います。

(以下、多少のネタバレを含みます。)

固定観念、規定概念からの自由

当作品を読んで最も強く心に残ったのは、エマ達の「自由」を求める姿です。

食用児として囚われた農園から脱出する話から始まり、
鬼からの逃走、そして最終的には自分達の住む世界自体から抜け出すこと。
この漫画のほとんどは、何かから「脱出する」構図をとっていました。

そしてこのテーマは、物理的な「脱出」に限りません。
最終刊では、立場や心のしがらみからも解き放たれようという姿が鮮明に描かれます。

「許せないけど 許さないと
本当に自由にはなれないんだよなぁ・・・」
自由になろう 私達は皆囚われている
鬼も人も・・・そう調停者も食用児も
でも世界は変わる もう変えられる 変わろう
1000年の苦しみを今終わらせよう」

あれだけ恐ろしかったママ・イザベラとも和解・協力することとなり、
ラスボスであるラートリー家を許し、
過去の遺恨を完全に断ち切っての、なんとも清々しい大団円です。

それは人間サイドだけではなく、鬼サイドでも同じです。
人間と和平を結んだのにも関わらず、食用として農園に囲うという歪。
権力の腐敗の温床となっていたこの制度が、最後には爽快に壊されます。

・人間は鬼に勝てない、食われるしかない
・鬼は人間を食う
・世界を変えることはできない
・人は裏切る、分かり合えない
・憎しみは連鎖する

そんな固定観念や規定概念を打ち砕く姿を描く、自由への戦いの物語。
少年漫画らしくないダークファンタジーと言われ続けた作品でしたが、
終わってみれば、夢や希望に溢れた正当派ど真ん中に着地したなと思います。

人類よ結束せよ

そして最終刊を読んで、作者がそんな自由の先に描きたかったものは、
「人類の結束」だったのかなと思いました。

「立場が違うから争って貶めて憎しみ合って
でもそれぞれの立場を差し引いたら・・・そうやって考えたら
本当は皆 憎み合わなくてもいいんじゃないかな」

思えば最初の最初から、人間サイドは、
多様な人種、年代、性別、性格の子ども達が、一つの家族として描かれました。
途中から、大人であるユウゴ達が加わっても、ノーマンが成長してしまっても、
小さいチームに分かれることなく、全員が対等の扱いであったように思います。

シェルターでの生活を支えるために役割分担をし、
鬼と戦うときは1対1ではなく、個々の能力を活かし一丸で戦う。
身体能力に劣る人間サイドは、結束し助け合うことで生き延びたと言えます。

最終巻で人間側の世界は、2047年の未来として、このように描かれました。

「国境の撤廃 世界は一つの大きな国となった
まだまだ課題だらけだがようやく人類は歩み始めた」

初見したときはやや唐突な印象を受けましたし、
そのような設定がなくても、その後の展開には影響なかったはずです。
それでも敢えて、そのような描写を入れたのは、
自由を求めて辿り着いた理想郷は、そのような結束された世界であるはずだ、
という作者からのメッセージなのだろうかと感じました。

一方の鬼サイドは、一枚岩として描かれたシーンは稀です。
独断、利己、裏切り、権力争い、様々な理由で分裂し、
人間と戦うときにも、基本的には協力することはなかったように思います。
そのあたりも意識して対比的に描かれていたのではないでしょうか。

結局、「約束のネバーランド」とは何だったのか

終わってみて、一言でこの作品をまとめるのであれば、

「立場や環境、しがらみを越えたら、人間はわかり合える。
そして人間が結束すれば、もっと素晴らしい未来に辿り着ける」

そんなテーマを少しも説教臭くなく、実に爽やかに描いた作品だったなと思います。

現実の我々は、人か鬼か

そんな人類の勝利を高らかに謳った本作でしたが、
では、「鬼」とはなんだったのでしょうか。
最終巻では、このように示唆されています。

「鬼が食用児にしてきたことなんて
人間は人間同士で 遙か昔から繰り返してきている」
「人間(むこう)の世界も変わらない
なぜなら 鬼は人間の鏡だから」

ヴィーガンは、社会問題への警鐘を提起するがために、菜食主義を貫いているそうです。
即ち、「環境汚染」「飢餓」「屠殺」「健康問題」。
多くの国は既に、牛も豚も鶏も、最悪食べなくても生きていくことはできる状況です。
これだけのコストを支払って、それでも人間は牛を食べるのか?
それが彼らの主張だと認識しています。

「農園で、食用肉を育て、或いは娯楽として狩り、食す。」
これは作中では鬼が行っている行為ですが、現実では、人間が当たり前に行っていることです。

先ほど触れた、鬼が「一枚岩として描かれていない」という点も暗示的です。
現実の世界は、最終巻で描かれたような一つの国にはなっていません。
エマ達のように、多種多様な人間が手を取り合い、一丸となって戦うことは、
果たして現実の人間には可能なのでしょうか?
どちらかと言えば、自分だけが助かろう、相手を出し抜いてやろう、
そんな邪な奴が少なからずいる、そんなイメージの方が近いのではないでしょうか。

そう思えば、作中の「鬼」こそが現実の人類そのもので、
エマ達は、自由を手にし結束した「一歩先に進んだ人類」として描かれたのかなと思います。
故に、固定観念から自由になれというメッセージが、読者の胸により刺さったのかもしれません。

終わりに

ということで約束のネバーランド、素晴らしい熱量の作品でした。
ここでは「自由」と「結束」に絞って総括してみましたが、
それだけではない膨大なテーマと、私が気づくことさえ出来ていない深みがあると思います。

最初から最後まで名作であることが確定された作品。
また読み返し、高揚と感動を反芻したいと思います。

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