映画「容疑者Xの献身」はミステリというより失恋の物語だよね、という逆張り考察

映画評
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amazon PrimeVideoで、余りにも今更ですが、2008年公開の「容疑者Xの献身」を観ました。

 

この原作小説は当時、「本格ミステリか否か」の論争があったそうですね。そして議論の果て、結局現在は「本格ミステリである」という世論に落ち着いているようです。

容疑者Xの献身 - Wikipedia

 

私は原作を読んでいないので、小説の良し悪しについて論じる事はできませんが、
少なくともこの映画を観た限りで、私は敢えて「これはミステリではない」と言う逆張り見解を押し出したいと思います。

世論に埋もれて消えていく程度の些細な考察ですが、せっかくなので書き残したいと思います。

 

というわけで、以下、映画鑑賞済みであることを前提にストーリーの根幹に関わるネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

ネタバレあらすじ

天才数学者である石神は、人生に絶望し首を吊ろうとする寸前で、隣の部屋に引っ越してきた美人の花岡に恋をし、自殺を踏みとどまる。そして彼女の勤める弁当屋で弁当を買う事が、彼の生きる糧となった。

一方花岡はある日、昔の男と諍いになり、揉み合った末、部屋で殺害してしまう。
隣室から物音でそれを察した石神は、花岡とその娘の生活を守るため、アリバイ工作を指導する。
そのトリックとは、いなくなっても誰にも察知されないホームレスを殺害し、顔面を潰し指紋を灼き身元不明にして被害者とすり替えることで、死亡推定時刻を1日誤認させ、花岡と娘に鉄壁のアリバイを成立させる、というもの。

 

警察は石神の残した偽の証拠品に踊らされ、一向に真相に辿り着けない。
しかし、石神の友人でもある天才物理学者・湯川(ガリレオ)が調査に乗り出すと、雲行きが怪しくなる。

そこで石神は、自らを殺人者・花岡のストーカーであることをでっち上げることで、彼女らを守ろうとするのだった。

 

しかし、拘留所から石神が護送される寸前、湯川から真実を聞かされていた花岡は、石神だけが逮捕されることをよしとせず警察に出頭した
「ごめんなさい、私達だけが幸せになるなんて、そんなの無理です。私も償います。石神さんと一緒に、罰を受けます。」
こうして「花岡を守る」という目的が果たせなくなった石神は、号泣しながら護送されていくのだった。

 

 

ミステリとしての面白さ

この作品が「ミステリではない」と豪語するには、まずは王道にこの作品をミステリとして評価する必要があります。
結論から言いますと、

ミステリとしても大変面白い
・ただし、難易度は低め
・トリックの複雑さよりも、ミスディレクションが冴える作品

 

というのが私の意見です。

 

まず、肝心要の死体入れ替えトリックについて、「難易度は低め」としたのは、「死体を入れ替えることで死亡推定時刻を誤認させるトリックは、割とよくある」からです。

特に、死体を外観から特定不能にしてあるのはとてもよく見る例ではないでしょうか。「双子と顔のない死体は入れ替わりを疑え」というのはミステリの基本とも言うべきトリックです。

また、死体の入れ替わり先としてホームレスを特定するのも、難しくはなかったでしょう。前述の通り「この死体、さては入れ替わってるな」という目で見ていれば、唐突にホームレスや歯車の話が出てきた時点で怪しいと思えるからです。

故に、「難易度は低め」です。探偵風に言えば、「初歩的なことだよ」という感じでしょうか。

ただし、実際には一貫した推理を読了まで貫くことは、非常に難しいでしょう。
何故なら、「こっちの方が怪しくない?」という思考のミスリードが諸所に散りばめられているからです。
これが、この作品がミステリとして非常に面白いという、最大の評価ポイントです。

 

具体的なミスリードとして3点挙げましょう。

(1)殺人を隠蔽するために新たな殺人を被せるという常識外の発想
→おそらく、これがこの作品の最大のアイデアだったと思う方も多いでしょう。
(倫理的にどうとかをミステリ小説で語るのはナンセンスだと思うので、私は気にしません。)
まぁ、身長とか血液型とかなんとか、ぴったりの替え玉がたまたま居たの?というのは疑問に残りましたが。

 

(2)湯川の「あいつは人を殺すことを選ぶやつじゃない」という断言

→これは、主人公であり探偵役である湯川に言わせることで、非常に凶悪なミスリードとなっています。ただでさえ発想の外側にある(1)の思考を、「殺しではない」というワードで上書きしてくるのですから。読者は、「えっ、じゃあやっぱり別のアリバイトリックなのかな?」と思わされてしまうことでしょう。

 

しかし一方で、探偵役が率先してミスリードしてくることをズルいという気持ちも芽生えます。それでは推理できない、フェアじゃないと。しかしこの作品は秀逸なことに、これに対してもカバーアップされているのです。

具体的には、石神が湯川に「君はいつまでも若々しいな、羨ましいよ」と言い、湯川が「お前らしくないな」と返す場面です。

このシーンについて作中では、「石神が恋をしていることを示唆する場面だった」と振り返られていますが、更にメタで考えた時、同時に「石神は既に湯川が知っている人間ではなくなっていた」ことを示唆する場面でもあった、と考えられます。

つまり、湯川が「あいつは人を殺すことを選ぶやつじゃない」と語ったことも、「⇔しかし石神は既に湯川の知っている人間ではなくなっているのだから、殺人と言う選択肢もあり得る」と読み解くためのヒントが用意されていた、ということです。

 

この何でもないようなシーンに込められた、演出家と視聴者との思考のせめぎ合い、これぞミステリの醍醐味ではないでしょうか。

 

(3)石神が雪山で湯川を助けるシーン

→このシーンはおそらく映画オリジナルではないかと思いますが、これがダメ押しとも言える陽動となります。

直前まで「実は石神は真正のストーカーでサイコパス野郎なのでは?」と思わせる演出を続けておき、この雪山でも遭難しかかった湯川を見捨てるような素振りをしてからの、ちゃんと助けるという。

この揺さぶりにより視聴者は、「石神はたとえ自分を追い詰める探偵であっても、殺す事を良しとしない思想なんだ」と刷り込まれてしまったことでしょう。私がそうです。

このようなシーンがあったからこそ、より一層、「トリックのために関係のないホームレスを巻き添えに殺した」というサイコパス性が際立ち、作品にインパクトを生み出したのだと言えます。

 

 

このように、シンプルなトリックでありながら、キャラクターや展開によって秀逸に思考をミスリードさせる非常に良く出来たテクニカルなミステリだと言えると思います。

 

けど、ミステリとして評価していいのか?

しかし、前述した通り非常に良く出来たミステリだなとは思いつつ、一方でミステリらしくない点があまりにも多いとも感じました。

 

(a)探偵の謎解きの過程がないこと

これはひょっとしたら映画版のみのことなのかもしれませんが。
ミステリの多くは[問題編][解決編]にパート分けされると思いますが、[問題編]で殊更重要になるのが「調査パート」です。探偵が現場を訪れ、遺留品から推理をしたりヒントや証拠を得ることで[解決編]において犯人を追い詰める準備をするパート、と言えるでしょうか。

 

しかし本作では、その描写がほとんどありません。湯川は遺体発見現場に行きはするものの何か証拠を掴むわけでもなく、石神と会話をしたりはするもののそこから何かを得ることはほぼありません。中華料理点で「幾何と見せて実は関数の問題」からヒントを得たくらいのものではないでしょうか。

 

トリック自体がシンプルなものなので、そのヒントを得ていく過程を描けなかったのではないかと思うくらい、探偵要素が少なかったと思います。

 

(b)探偵が空気

前述の調査パートがほとんどないことにも関連しますが、全体的に、探偵に腕の見せ所がなかったというか、そもそも別に探偵いらなかったのでは?というくらいの影の薄さでした。

 

本当に探偵役が必要だったのは、花岡に真実を話して出頭させるためくらいだったのではないでしょうか。(湯川が調査を始めたからこそ石神は自ら出頭する計画に切り替えた、という点ではストーリーに関わってはいますが、それも「花岡がボロを出しそう」とかの理由で持って行けた話だと思うので、必須性はなかったように思います。)

 

更に言うと、これを「探偵ガリレオシリーズ」として出したのが不思議なくらいでした。物理にも関係しないし、湯川の個性も活かされてなく、これ単独で出して充分成立したのではないかと思ってしまいます。(※そもそもよく見ると、映画のタイトルに「ガリレオ」という言葉は入ってもいませんし。)

 

この探偵役の存在感のなさ、必然性のなさが、どうも「ミステリ」っぽくないなと感じる原因になっているように思います。

 

(c)石神の献身が過ぎる

そしてこの作品がミステリらしからぬ最大の点が、犯人役の献身が過ぎる事です。

ミステリにおいて、意図せず殺人を犯してしまった人を守るために共犯者になる、というシナリオは珍しいことではありませんが、大抵は家族、恋人など、深い繋がりのある人がそれをするものです。今作品のように、唯の赤の他人が、恋仲にあるわけでもない唯の隣人のために、大金を得るためでもなんでもなく、殺人の上塗りをする猟奇殺人を犯し、果てには自ら逮捕される道を選ぶなど、かなり前代未聞です。

 

ミステリにおいては、「合理性」が非常に重要視されるものだと思っています。何故なら、「読者に謎が解けることを前提に物語を展開する」ことが半ば暗黙のルールとして定められているためです。何故そうなるのか?どうしてそう思う事ができたのか?それらが合理的に納得し得るように情報が提示されないと、推理に足るフェアな作品と見なされなくなってしまうのです。

その点、石神の行動はあまりにも非合理的です。(これは湯川もそう言っていますね。「殺人によって苦痛から逃れようというのは合理的ではない」とか)
これらがいい目眩ましになることで、あっと驚く種明かしとなるわけではあるのですが、問題は読者に「そんなこと考えるやつがおるかい」とでも思われてしまうと、ミステリ作品として成立しないということです。

 

こういった理由で、本作品はミステリらしくない、とも思うのです。
しかし、ミステリかどうかはともかく、作品としては充分過ぎるほど完璧に成立しています。それは何故か?それこそが、本作品が「ミステリと言うより」という最たる根拠となる点なのです。

 

ミステリだけでは成立しない、恋の物語

我々は何故、このような非合理的な行動をとり続ける石神に納得ができるのでしょうか?
それは、犯人の動機、そしてこの作品のテーマが、理屈を越えた自己犠牲の源、即ち「恋」だから、だと考えます。

石神が一方的に抱いた恋は、(おそらく作中では描かれていないコンプレックスの影響で)決して実らない事が前提のものだったのでしょう。故に、石神にとっての恋の成就は、「花岡の幸せ」そのものに置き換えられたのです。「普通、共犯者になってもそんな事しないだろ」という動機を、「恋」で説明しているのです。

 

逆に言えば、恋でなければ成り立たない物語。だから私はこの作品を、「ミステリではなく失恋の物語」だと思うのです。

 

ちなみに、ラストが「失恋」であることに疑問を持つ方はいるでしょうか。私自身、鑑賞中は、花岡の「私達だけ幸せになるなんて、そんなの無理です」「石神さんと一緒に、罰を受けます。」という台詞を、どう解釈すればいいのか分からずにいました。果たして、これは気持ちが通じ合ったという意味でいいのか?と。

 

しかしよくよく思い返した末、それは違うと思い至りました。根拠は「四色問題」です。

四色問題は、石神というキャラクターを象徴する数学の問題として幾度も登場します。それに関する印象的な台詞を抜粋しましょう。

 

隣同士が同じ色になってはいけない
(拘留中の石神のモノローグ)

 

「隣同士」とは、石神と花岡の関係に喩えられます。更にこれは、石神は花岡と同じ色であってはならない=同じ境遇、即ち殺人者として2人とも捕まるなどあってはならない、という意味で捉えられます。

 

花岡は出頭する道を選びます。「私もあなたと一緒に、罰を受けます」という台詞は、石神と花岡が同じ色になること、即ち四色問題の否定と言えます。四色問題=石神の象徴と思えば、それは石神自身を否定した、と解釈できます。

石神にとっての恋の成就は「花岡の幸せ」でした。そのために自らの人生すら投げ打つという献身によって、それを叶えようとした。しかし、花岡が出頭し逮捕される道を選んだという事は、石神の恋と彼そのものを否定した、即ち彼の「失恋」だったのだと言えます。

石神の最後の咆哮は、失恋の慟哭だったと言えるでしょう。

蛇足

(↓これまでの考察と何の関係もない、まさに蛇足。)

このように、男視線で見ると美しい純愛のように思えますが・・・
女側の視点から見ると、周りの男達がワラワラと勝手に惚れてきた挙げ句、勝手に不幸を拡大させていくって、心底地獄じゃないですかね・・・
巻き込まれたホームレスが可哀想とかより前に、花岡が不憫でなりませんでした・・・

 

終わりに

ということで、映画「容疑者Xの献身」の逆張り考察でした。

あまりに特異なつくりだったので敢えて逆張りの視点から語ってみましたが、真っ当なミステリとしても十二分に素晴らしい作品だと思います。

 

東野圭吾は、初めて読んだ一冊がヘビーすぎて他に手を付けられずにいましたが、改めて探偵ガリレオシリーズから是非読んでみたいなと思いました。

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