昨年に引き続き、今年も「キングオブコントの会」を視聴しました。
松本人志を筆頭に、ベテラン勢+歴代KOCチャンピオン達が総出演するという、超贅沢なこの番組。
勿論とても楽しく見ていました。個人的には賞レースとはまた違う、肩の力の抜けたシンプルな笑いを扱った組が多く、とても新鮮で面白かったです。
全体としてどのような番組だったのか、この番組自体にどのような意図・意義があったのかについて、私個人の感想を書き留めてみたいと思います。
「キングオブコントの会」とはどんな番組だったか
まずは私が感じた、この番組のコンセプトについて。
表面的には、「KOCチャンピオンの新作コント発表会」のようにも見えるでしょう。
しかし、その実態は全く異なることは明らかです。勝敗や審査がつかないことのみならず、下記の点でKOC本選とは全く異なるコントがそこにありました。
昨今の賞レースで評価されるには、笑いの量が絶対的に必要になるため、如何に多くのボケを仕込むかの戦いになる傾向があります。また基本的には舞台を見せる形になるため、小さいモーションや細かな表情、角度的な死角が生まれる演技は評価されづらい傾向にあります。それらから解放されることで、より多角的な笑いを描くことができ、普段のネタとは全く異なる見せ方ができるていたと思います。
また、時間制限がなくなること・編集で調整できることで脚本は厳密なものではなくなり、寧ろアドリブ的な要素が強くなっています。そしてそれは、脚本家の想像を超えていくということ、つまり各芸人の頭の中に在る世界を表現するだけでなく、それがより広がっていく様が見えるのです。
それを更に加速させるのが、KOCというブランドを冠したテレビならではの大規模な予算・セットを使えること、そして超一流の共演者が支え・膨らませてくれることでしょう。表現者として、こんなにも理想的な環境があるでしょうか。さぞかし楽しかった事でしょう。
即ち、一言で言うならばこの番組は、「コントの自由を得た実力者たちの全力の遊び場」だったように思うのです。
自由を体現したコント
この「コントの自由」を最もよく体現したのは、シソンヌの「喫茶店」だったように思います。
前述の要素に当て嵌めてみると、
→8分40秒(KOCの持ち時間は、概ね4~5分)
→カメラ9台を使った多角的な編集、大勢のエキストラ、本当の喫茶店と見紛うほどの精密なセットという、ドラマ並の映像クオリティ。
→過去にはあった人々の会話という「温かみ」、それがコロナでなくなってしまったという「切なさ」の表現が要求される、演技志向の高い脚本。
というように、テレビコントによって与えられた武器をフル活用した、正にここでしか見られないコントの形だったの言えるのではないでしょうか。
また、ハナコの「お座敷遊び」、バイきんぐの「宅飲み」も特徴的でした。
前者は、基本的にボケは「野球拳で負けないと飲み物が飲めない」という謎ルールのみ、あとはバナナマンの演技力に全フリした尖った脚本構成、
後者は、8000本のペットボトルを部屋に敷き詰めるという、個人レベルでは実質不可能とも言える手間と物量を主軸においていた点が、テレビのゴールデン枠ならではのものになっていたのではないかと思います。
いつもとあまり変わらなかったコント
逆に、この「キングオブコントの会」においてもいつも通りのスタイルを通した組もありました。
ジャルジャルの「脚本家とエグゼクティブプロデューサーの奴」がそれに当たるかと思います。
長尺でこそあったものの、会話劇のため特別なセットも必要とせず、ゲスト演者も、かもめんたる・う大のみ。内容的にも、パワーが2倍にはなっているとはいえ、ひたすら1つのボケを繰り返す「いつものジャルジャル」と言えるものだったのではないかと思います。
これをどう思うかは人に依るでしょう。
ポジティブに捉えれば「こんなスペシャルな場で自分たちのスタイルを貫き通すジャルジャル△」とも言えますし、ネガティブに捉えれば「誕生日プレゼントに現金を渡すような空気の読めない奴ら」であったようにも思えます。
勿論、スケジュールや他の組との調整など、制約が全くなかったわけではないでしょうから、外野にやいのやいの言う資格はないのでしょうけれど。
個人的には、他の組が新たな引き出しを見せてくる中、相対的にこぢんまりとした印象になってしまったのは残念でした。
松本人志のコント
では、松本人志のコント「落ちる」はどうだったでしょうか。
言うまでもなく、前述したコンセプトにばっちり適っている、テレビコントのお手本のような構成だったと思います。
というか、この番組自体が「ごっつええ感じ」で確立したやり方を踏襲しているように思います。
そう思えば、この番組は松本人志にとってのホームグランドなので、番組コンセプトがどうのこうのなど、語るにさえ値しないことなのかもしれません。
逆にいえば、若手に「ごっつ」のスケール感を体験させるための場であったのかも?と思えるくらいです。
しかしそれにしても、松本人志のコント「落ちる」については、他の歴代チャンピオン達のコントを前にしても異色だったと感じる方は多いのではないでしょうか。
それについて、私は「ボケの性質が他と全く異なる」ことが要因にあると考えます。
松本人志のコントにおいて核となっていたのは、「謎が謎のまま解明されない気持ち悪さ」でした。それは他のどの組にも見られなかったものだと考えます。
たとえばハナコの「お座敷遊び」においては、「飲み物を飲めないという謎ルール」が主軸にありました。最後までこのルールの正体が明かされる事はなかったので、そういった点では共通点があるように思えます。
しかし、根本的に異なるのは、それを直接的に「笑い」にしようとしているかどうか、という点です。
ハナコのコントにおける核とは、「飲みたくて必至になる姿」「なんとか飲みたいとドタバタする様」であると思います。これは絵的な面白さ、日村の心情を慮ったときの哀れさから生まれる笑いであり、視聴者はその仕組みをロジカルに理解する事ができます。そして究極、謎ルールの正体が分かっても分からなくても、その面白さには大きく影響しないのです。
一方、松本人志のコントにおいては、謎ルールそのものが笑いを生み出しているのです。
何故演奏中に人が落ちるのか?何故念じると人を落とせるのか?そもそもおっさんらが令和の時代にチェッカーズをコピーしようとしている理由は?そもそも舞台は令和なのか?終盤のあからさまなコラ写真の意図は??
それらはドラマのテンプレートをデフォルメしたもののようにも思えますし、何かのオマージュ、メタファー、パロディなのかとも考えられます。ひょっとして何か言葉遊びなのかも知れません。曲の歌詞の冒頭に「ダウンタウン」という言葉があることも啓示的ではあります。しかし結局、明確な答えは示されないのです。少なくとも私は、何一つ理解できませんでした。
それでも「落ちる」こと自体に、或いはいいおっさんらが真剣に当て振りに臨む姿それ自体に、何故か笑ってしまうのです。それは、このコントの面白さが理屈やロジックを越えて、非常に感覚的なところにあったからだと思っています。
私は、松本人志は「面白さ」というものを、ロジカルに示すのではなく、本能的な感覚に訴えることで表現しようとしていたのではないかと感じました。
そしてその正体は、「自分の想像の外側に触れるという快感」なのではないかと考えます。
例えば、想像もしなかった出来事に遭遇したときの驚き、新しい雑学を知ったときの仄かな昂揚感、圧倒的な存在を前にしたときの畏怖といった、「思わず笑ってしまう」「笑うしかない」という類いの感覚的な笑い。彼のコント「落ちる」は、それに非常に近いものだったように思います。
つまりこういうことではないでしょうか、視聴者の想像の外側を撫でる事それ自体が、彼の笑いの本質である、と。
まとめ
まとめとして、この「キングオブコントの会2022」という番組の裏コンセプトには、
であること、そして、
という二つの構図があったと考えます。
即ち、この番組の面白さは、「新しい一面」「新鮮さ」にこそあったのではないかと。
終わりに
というわけで、キングオブコントの会2022の考察というか感想でした。
2000年台前半のお笑いブーム時に比べて、テレビコントの数が圧倒的に少なくなった昨今、こういった豪奢な番組が観られるのはとても貴重になってしまいました。キングオブコントというブランド様々だなぁと思います。
本当は、チャンピオン以外にもスポットを当てて欲しいですけどね。JPだけは例外的な特別扱いでしたけど笑。
後ほど気づいたのですが、TVerで過去のKOCの振り返り配信とかもしていたのですね。KOCはほとんどの年がDVD化されていない(と思っている)ので、久し振りに見てみたかったなーとちょっと後悔しました。
2022年の本戦にも同様のプレイバックの場があるのでしょうか。次こそは注視してみたいと思います。
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