AmazonPrimeで、名作と名高い映画「ショーシャンクの空に」を鑑賞しました。
確かに、派手でなく、奇を衒うでもなく、それでいて厳か、王道にして非常に説得力がある、「名作」と呼ぶべき映画だなと感じました。
内容とこの映画から受け取ったメッセージを、忘れてしまわないよう書き留めたいと思います。
なお、以下はこの映画を観賞済みである事を前提に、
ストーリーの根幹に関わるネタバレを含みますので、ご注意ください。
あらすじ
ある女が、その不倫相手と共に射殺された。
女の夫である、銀行の副頭取を務めるエリート、アンディ・デュフレーンは、無実にも関わらず犯人として誤認逮捕され、終身刑となり投獄されてしまう。
刑務所の中は絶望に満ちていた。
日常的に行われる、看守による暴行、囚人同士のイジメ、楽しみのない日々。
そんな中、アンディは「運び屋」であるレッドに小さなハンマーを仕入れることを依頼し、それをきっかけに2人は交流するようになる。
絶望的な環境の中にありながら、アンディは希望を失わなかった。まずは自身の金融スキルを活かし、看守に取り入ることに成功する。
やがて彼は、刑務所の会計係として、所員の節税相談に乗ったり、所長の横領や隠し金庫の管理をおこなったり、図書室の改装を許可されたりと、10年以上の歳月をかけ、徐々に自由の幅を広げていった。
一方でレッドは、「希望は塀の中では危険で、不要なものだ」と彼を諫めるのだった。
やがてアンディは、妻が殺された事件の真相を知る事となる。
新入りの囚人であるトミーが、別の刑務所で真犯人が自慢げに語る真実を聞いていたのだった。
所長に再審を求めるアンディだったが、所長はとり合おうとしない。
刑務所からの支援を諦めた彼は、所長の横領や所員の暴行を新聞社にリークして復讐を果たし、自らも脱獄を果たすのだった。
時は流れ、レッドに遂に仮釈放の日が訪れた。実に40年ぶりに外に出るレッド。
娑婆の生活に馴染めない彼は絶望しかけるが、服役中にアンディからもらった秘密のメッセージを頼りに、脱獄した彼の現在地を知る。
そしてレッドは国境を越え、新天地メキシコへ、アンディと再会しに出掛けるのだった。
聖書的な清々しさ
まずこの作品には、聖書的な清々しさがあると言えます。
それは、ストーリーから切に迫ってくる、「①悪は滅びる」「②希望を捨てなければ報われる」「③他人に分け与えよ」というメッセージ性です。
私は無宗教なのであくまで作品の解釈として、その3点について、下記に詳細を記したいと思います。
ヨハネ黙示録22章12節 :「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。」
悪い事をするなよ、というのは、聖書でなくても一般的な正義感として共感される事と思いますが、勿論聖書にも同様の記載があり、前述の言葉がそれです。抽象的で意味が掴みづらいですが、「善は勝ち、悪は滅びる」という意味合いで捉えて良いかと思います。
作中では、壁の中の金庫を隠すためのパッチワークに記載されていた、「主の裁きは下る、いずれ間もなく」がそれに当たるかと思います。(ただし、この言葉自体は聖書には存在しない、作品のために作られた言葉のようですが。)
実際に、この作品では「悪」が徹底的に醜く描かれ、そして必ず悲惨な最後を迎えます。
不倫をした妻は強盗に射殺されます。
アンディを理不尽に暴漢した囚人は、看守にボコボコにされ病院送りに。
囚人を虐待し続けた看守は、それをリークされ逮捕。
そして横領で私服を肥やした上、アンディの冤罪の真実を知るトミーを射殺した所長は、罪を暴かれ追い詰められ、自ら銃を口に自殺することになるのです。
逆に言えば、「罪を逃れた悪」は唯一人として描かれません。
この勧善懲悪ぶりはベタでもありますが、古今東西を問わない普遍のカタルシスがあると言えるのではないでしょうか。
マタイによる福音書(マタイ伝)7章 :「叩けよされば開かれん」
一方で、悪とは対照的に、アンディは刑務所中のあらゆる障害を排除する事に成功し、あらゆる望みが達成されています。
・看守に睨まれる → 税務相談に乗り信頼を得る
・囚人に暴漢される → 看守に守って貰う形で、囚人を排除
・図書を充実させる予算が欲しい → 国に手紙を送り続けることで受理される
・囚人の勉強を見てやる → 皆、高校卒業レベルの資格を取得。トミーも合格していた
・再審請求を受けてくれない → 脱獄し自由の身に。
・ジワタネホ(メキシコ)でホテルを経営したい → 所長が横領していた金で夢を叶える。
それは彼が天才的な主人公であり、スーパーヒーローだからでしょうか?いえ、私はそうは思いません。
何故なら、彼がこれらの成果を勝ち取るには、余りにも長い年月がかかっているからです。
数ヶ月にわたって暴行を受け続けたり、看守の小間使いのような事を10年以上させられたり、本を数冊買うだけの予算のために6年もの間手紙を書き続けたり、脱獄のための穴を掘るのに20年以上もかかっているのです。そもそも投獄された時点で余りにも不幸です。確かに彼は勝利を得ましたが、コストパフォーマンスで考えれば最悪です。私なら気が狂える自信があります。
つまりは、これは勝つべき者が勝つべくして勝ったという話ではなく、希望を捨てず泥に塗れるような努力をし続けた者にほんの少しの対価を与えているだけなのです。
長い苦難と引き替えに得られる小さな幸せ、実に聖書的ではないでしょうか。
ルカの福音書6章38節 : 「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」
そして3点目が、「隣人愛」の精神です。
作中、アンディは決して一人で生き、一人のまま脱獄したのではありません。
看守に取り入るためとはいえ、彼は「人助け」と称して税務相談にのっていました。レコードの音楽を館内放送を使って囚人達に聞かせたり、図書館で勉強を教えたりといった無償の活動を行っていたのです。
果たしてシナリオ的には、「脱獄」というエンディングを迎えるために、彼が隣人愛に満ちていることは必須ではなかったように思います。例え彼が誰にも心開かず、一人黙々と穴を掘っていても、脱出は叶ったであろうと思うからです。
では何故このような「人助け」の描写が強調して挟み込まれたのかと言えば、それが「彼が救済されるための条件だったから」だと暗示されているのではないでしょうか。
脱獄の日、天候は大荒れとなり轟雷が響いていました。脱出口となる下水管を破壊する際、石をたたき付ける際に雷の音に合わせることで音を紛らわせる、という描写があります。つまり、脱獄が叶ったのは天候を味方に出来たからで、その天候は自身の力の及ばない、神の御業あってのことなのです。人が神に救済されるための条件こそが、隣人愛だったのではないでしょうか。
このように、隣人に自分の持てるものを分け与えた男が偶然を味方にし脱出できた、というストーリー自体が、実に聖書的だと感じるのです。
この映画が伝えたかった事とは
さて、ここで一旦考えてみたいのが、「この作品の主人公は誰だったのか?」ということです。
それはアンディでしょうか?私は違うと思います。その理由を記載したいと思います。
まず、この映画作品には原作があります。スティーブン・キングの中編小説『刑務所のリタ・ヘイワース(Rita Hayworth and Shawshank Redemption)』がそれです。
この原作のタイトルが、リタ・ヘイワースのドキュメンタリーと勘違いされる、とのことで、映画化の際に『The Shawshank Redemption』に変更されたようです。
『ショーシャンクの空に』は、更に意訳された邦題ですね。それはそれで詩的で美しい表現だと思います。
さて、原作小説・映画原題共に、「Shawshank Redemption」=「ショーシャンクで罪を贖う」というワードが使われています。
では、作中で罪を贖ったのは誰でしょうか。
・アンディ → 努力と施しを続けた、成功の象徴。そもそも無実。
・館長、監守 → 悪の権化。罪を贖ったと言うよりは、裁かれて破滅。
・ブルックス → 投獄された罪を反省する描写はなく、おそらく時間経過で釈放。世界に絶望し自殺。
・レッド → 三度の面接を経て、遂に更正を認められ釈放。ブルックと同じ道を辿りかけるが、アン
ディに救われる。
そう、罪を償ったのは、レッドだけなのです。そう思えば、彼こそが作品が真に描きたかった主人公なのだと言えるのではないでしょうか。
そう思えば、三度目の仮釈放審査の場で彼が放ったセリフこそが、この映画の肝だと考えられます。
自分の罪にどこか他人事だったレッドは、2度の仮釈放審査で、「更正しました、私は真人間です」という薄っぺらな言葉を口にし、却下されます。
しかしアンディと話し、彼の内面を徐々に理解していくことで、人を殺すということはどういうことなのか?、果たして自分は殺した相手の内面を見ていたのか?、という己の罪に真摯に向き合うようになります。それが、3度目の審査で口にした言葉に結実しています。
贖罪(Redemption)とは何なのでしょうか。
それは決して、「真人間」になることではないのだと思います。
二度と取り戻せない命、償いきれない罪を犯したことに気づき後悔することで、初めて罪を許される、ということなのではないでしょうか。
ブルックスという存在も象徴的です。レッドは、最後の最後まで、世界に絶望し自殺した彼と、ほぼ同じ人生を辿っていました。
若くして罪を犯し、何十年も投獄され、世間から浮いた存在になった彼ら。ブルックはそれに耐えきれず、自殺という道を選びました。
しかしレッドは、生きる道を選びます。
(*1・・・直訳では「全くその通りだ」となるところですが、字幕では上記のようになっています。より直喩的な表現で、視聴者に伝えたいという意図が見て取れますね。)
レッドは、最終的にブルックスと何が違ったのでしょうか。
それは、アンディという存在を見た事、彼の中にある信念や隣人愛に触れた事、そしてそんな彼を尊敬したことです。だからこそレッドは、これからの人生に起こる事に希望を見いだし、アンディのもとを訊ねたのだと思います。
ラストシーンとなる、レッドのこの台詞。字幕では「俺は望む」ではなく「俺の希望だ」と訳されているのは、人生に希望を見いだしたレッドの心情を的確に強調した、実に粋な意訳ではないかと思います。
以上の点から、この作品のメインテーマと言うべき哲学は、「二度と戻らない時間を尊重し、日々を必死に生きよ」ということなのだと考えます。
アンディ目線ではなく、敢えてレッド目線で物語られるのは、「貴方自身が劇的な経験をするわけではなくても、考え方が変わるだけで生き方は変わる」という意図もあるのかもしれません。
終わりに
というわけで、「ショーシャンクの空に」の感想文でした。
繰り返しますが私は無宗教家なので、さも分かった風に「聖書的だ」などと語っていいのか疑問ではあります。
しかし、宗教が何千年もの間廃れないのは、やはりその言葉に真理の重みがあるからだと思います。
映画などを通じてそれに触れ、耳を傾け、その是非曲直を自分なりに考えることは、人生を豊かにすることに繋がると思います。
ので、映画を見て感じた事を忘れてしまわないよう、書き綴ってみました。
「名作」と言われるに相応しい、素晴らしい映画だったと思います。
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